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研究開発からグローバル市場への架け橋へ:シンガポール国立大学が「NUSX」で推進する大学発イノベーションの世界的変革

執筆者の写真: 安田 和貴/Yasuda Kazuki
安田 和貴/Yasuda Kazuki
10月8日
読了時間: 10分

大学の研究室で生み出された画期的な研究成果を、どのようにして地球規模の産業や社会課題の解決へと結びつけるのか。シンガポール国立大学(NUS)が主催するA5X Global Innovation & Venture Summit(2026年9月開催)において、NUSのイノベーション&エンタープライズ担当シニアバイスプレジデントを務めるタン・シアン・ウィー博士が登壇し、同大学の起業家育成・技術移転エコシステムを指針する新たなグローバルブランド「NUSX」の始動を発表した。シンガポール政府の高官やNUSのタン・エンチャイ学長をはじめ、ベンチャーキャピタリスト、研究者、政策立案者が一堂に会したカンファレンスにおいて、タン博士は25年間にわたる起業家教育の歩みを振り返りつつ、生成AI時代の到来を見据えた新戦略の全貌を語った。ラボから市場への架け橋となるキャズムを乗り越え、アジア発の起業家が世界へ跳躍するための包括的なプラットフォーム構造について、その詳細を追う。


A5X Global Innovation & Venture Summitで登壇するタン・シアン・ウィー博士
A5X Global Innovation & Venture Summitで登壇するタン・シアン・ウィー博士

25年の歴史が築いた基盤と「研究から市場へ」立ちはだかるキャズムの克服

シンガポール国立大学における起業家精神の育成と技術の産業化は、一朝一夕に実現したものではない。今から四半世紀前となる2001年、当時のシー・チュン・フォン学長が「エンタープライズ」という概念と「最高経営責任者」という言葉を学内の用語集に導入したことからすべてが始まった。研究の初期段階にあった当時のシンガポールにおいては、大学内に企業の概念を持ち込むこと自体が極めて前衛的な試みであった。


その後、イノベーション部門の礎を築いたジェイコブ・ファン氏が最初の14名の学生をシリコンバレーへと引き連れ、本場の起業家エコシステムを学ばせたことが、現在の看板プログラムであるNUS Overseas Colleges(NOC)の先駆けとなった。続いてウォン・コー・キー教授がこの海外派遣体験を正規の単位として認定し、制度的・学術的な基盤を固めた。この取り組みにより、大学3年目の学生が1年間にわたり世界各地のスタートアップで働きながら起業家精神を身につける仕組みが確立され、官僚や大企業への就職以外の選択肢が示されることとなった。


さらに、初代学術ディレクターを務めたジョー・ワイ・ヤング教授が組織のスケールアップを推進し、リリー・チャン博士は13年間の在任中にこのネットワークを南米チリにいたるまで世界中に拡大した。そしてフレディ・ボイ教授は、大学の先端研究をイノベーションへと昇華させるディープテックの明確な使命を与えた。何百人もの先駆者たちの情熱と積み重ねの上に、今日の基盤が存在している。


しかし現代において、イノベーションを取り巻く環境は急激な変化を遂げている。生成AIの急速な普及は、基礎研究から市場参入にいたるすべてのプロセスを加速させている。一方で、最大のボトルネックとして立ちはだかるのが、研究室での発見を市場で通用する製品や事業へと変換する「トランスレーション(技術の翻訳と事業化)」の段階である。研究室と市場の間に存在する広大な「死の谷」をどのように埋めるかが、現代のイノベーションエコシステムにおける最大の課題となっている。


「NUSX」への再定義と20年を見据えた野心的な指標「Three Ones」

こうした変化に対応するため、同大学は従来の組織名称であった「NUS Enterprise」から、新たな未来を象徴するブランド「NUSX」への脱皮を宣言した。名前に刻まれた「X」の文字は、大学が誇る高度な研究、育成される優秀な人材、創出される新興企業、そして拡大するグローバル市場という4つの要素が交差する結節点を意味している。試行錯誤が治療法へ、探求が成長へ、レジリエンスが準備態勢へ、そして技術的突破が世界的優位性へと変わる場所を構築することがNUSXの根幹をなしている。


NUSXが掲げる目標は、四半期単位の短期的成果ではなく、今後20年という長期的なスパンで評価される壮大なものである。タン博士は、その核となるミッションとして「Three Ones(3つの1)」と呼ばれる3つの定量的指標を提示した。第一に、年間売上高が1億ドル(約150億円)を超えるNUS発のメガベンチャーを1社以上創出すること。第二に、投資リターンとして累計10億ドルを達成すること。第三に、書籍や論文にとどまらず、世界で10億人以上の人々の生活に対して好ましい影響をもたらすことである。世界の産業に不可欠なイノベーションをもたらしてきた革新的な企業の多くが大学の研究成果に根ざしているのと同様に、NUSXはアジアの最優秀な創業者たちが世界に向けて挑戦を開始する最良の拠点となることを目指している。


イノベーションエコシステムを駆動する5つの柱「A5X」戦略

NUSXのミッションを実現するために定義されたのが、「A5X」と呼ばれる5つの領域にわたる変革フレームワークである。人材、技術、資本、社会的影響、そして市場牽引力のそれぞれにおいて、従来の大学行政の常識を覆す具体的なアプローチが展開されている。


第一の柱であるTalent(人材)において、同大学は起業家精神が教科書や講義によって授けられるものではなく、現場での実践を通じてのみ習得されるという教訓をNOCプログラムを通じて学んできた。これに伴い、今後の育成プログラムでは選考基準を大幅に厳格化し、明確なビジョンと不確実な環境を生き抜く強いレジリエンスを備えた人材を厳選する方針へと舵を切る。単に知識を与えるのではなく、課題を発見し解決策を生み出す洞察力を磨く教育が徹底される。


第二の柱であるTechnology(技術)では、世界中の大学における従来の技術移転機関(TTO)の評価モデルに対する根本的な見直しが行われている。これまでTTOの成果は、締結されたライセンス契約の件数や得られたライセンス料収入によって推し量られてきた。しかし、煩雑で長期間に及ぶ知財交渉は、事業化を目指す起業家から情熱と時間を奪う要因となってきた。NUSXはこの問題を解決するため、知的財産(IP)のライセンス方針を極限までシンプルかつ透明化し、オンラインで即座に手続きが完了する仕組みへと変更する。さらに、同国のナンヤン理工大学(NTU)をはじめとする他の高等教育機関と知財政策の調和を図り、シンガポール全体で円滑な技術流動性を実現する試みを主導している。


第三の柱であるCapital(資金)では、大学の役割が「資金調達先を紹介する存在」から「自ら資本を引き寄せる主体」へと変化した。NUSXは1億5000万ドル(約220億円)の運用枠を持つ「NUS Venture Capital Program」を通じて、世界の特定領域や拠点に強みを持つトップクラスのベンチャーキャピタルと連携し、共同投資を推進している。単に資金を提供するだけでなく、実際の市場ニーズ(マーケット・プル)に基づいたリアルタイムの市場インテリジェンスを確保することで、大学発スタートアップの最大の敗因である「プロダクトマーケットフィットの欠如」を回避する狙いがある。


第四の柱であるImpact(社会的影響)の象徴的な取り組みとして挙げられるのが、国防技術(Defense Tech)分野への進出である。地政学的な緊迫が高まり、従来の兵器体系からドローンやミサイルを中心とした新たな防衛体制への移行が進む中、自国での技術供給網の確立が世界的な課題となっている。こうした背景のもと開催された「Defense Tech Hackathon」と「Defense Tech Venture Lab」には、当初の想定であった150名の参加目標を遥かに上回り、世界中から1,000名を超える志願者と23社のスポンサーが集結した。安全保障という国家の基盤を支える技術開発を推進することで、高度なSTEM人材を防衛起業家へと育成し、実効性の高い社会的インパクトを創出している。


第五の柱であるTraction(市場牽引力)においては、国土面積が約730平方キロメートルという限られた領域に位置するシンガポールの地理的制約を克服するため、「Day -1(創業直前)」からのグローバル展開が前提とされている。NUSXは世界の主要イノベーションハブに常駐スタッフを配置した拠点を展開している。シリコンバレーではPlayground Globalと連携した拠点を構え、ドイツのミュンヘン工科大学(TUM)とのパートナーシップ、日本の東京・高輪ゲートウェイでの拠点開設、さらには中国各地での展開を通じて、単なる交流を超えた各国の投資環境や市場の中心での地位を確立している。これらはBLOCK71やPIER71、CyberSG TIG Centerといった既存のプログラムと連動し、グローバル規模での急成長を支えている。


デジタルフロントドアの刷新とAIを活用したウェブ体験の構築

グローバル展開の加速に伴い、外部のパートナーや投資家がNUSXのエコシステムにアクセスするための「デジタルフロントドア」も劇的な進化を遂げた。ブランディングパートナーであるMatteronとの協業により、わずか6ヶ月の期間で128ページにおよぶ広大なウェブサイトが構築された。この新Webサイトは、単なる情報の集積体ではない。最先端のAI技術が実装されており、訪問者がサイトにアクセスした際、自身の属性や探している目的を伝えるだけで、メニュー階層を辿ることなく、そのユーザー専用のページがリアルタイムで自動生成される仕組みを備えている。特許を探す投資家、事業提携を模索する企業、起業を目指す研究者など、あらゆる訪問者が要求する情報に一瞬でアクセスできるよう設計されており、ブランドのビジョンと技術的先進性が融合した画期的なユーザー体験を実現している。


NUSXの新たなWebサイト(https://nusx.edu.sg/)
NUSXの新たなWebサイト(https://nusx.edu.sg/)

技術移転の業務を数ヶ月から5分へ圧縮するAIエンジン「NOVA」

NUSXがもたらす最大のイノベーションの一つが、組織の裏側で稼働するバックエンドのAIプラットフォーム「NOVA」である。NUSのタン・エンチャイ学長の特命のもと、同大学が保有するすべての論文、博士論文、特許文書、発明開示情報が統合データベース化され、Zema Labsとの共同開発によって自律型AIエージェントとして構築された。従来、大学における技術移転プロセスは極めて人海戦術に依存していた。一つの発明が提出されると、担当者が内容を読み込み、専門知識を持つ人材へ橋渡しを行い、市場ニーズの調査や特許調査を実施した上で、何ヶ月もかけて企業へのアプローチや提案書の作成を行ってきた。NOVAはこの一連のプロセスをわずか5分間で完結させる。


ライフサイエンス分野における具体例として、がん治療に関する特許のライセンス調査を実行する場合、NOVAは大学内の膨大な知識ベースから関連特許を即座に抽出し、企業ごとの関心度や競合状況を分析する。さらに、ブリストル・マイヤーズ スクイブ(Bristol Myers Squibb)のような大手製薬会社の既存パイプラインや臨床試験データと照合し、なぜその技術が同社のポートフォリオに適合するのかという論理的な差異化要因を明記した提案書やメール文面を自動生成する。


また、インキュベーションやベンチャー創出の現場においてもNOVAは威力を発揮する。例えば、ベン・ティー教授が保有する特許技術を解析する際、NOVAは適用可能な市場の規模や成長性だけでなく、世界中のVCデータベースと照合して最適な投資家候補をリストアップする。その際、単に条件が合致するVCを挙げるだけでなく、該当ファンドが現在もアクティブに資金を投資しているか、あるいは回収モードに入っているかといったリアルタイムの投資動向まで判定する。その上で、投資家のポートフォリオに合わせた出資打診メールのドラフトを即座に作成し、Gmailと連携してミーティング予約の手続きまでをスムーズに実行することができる。


NOVAのデモを行う様子(A5X Global Innovation & Venture Summit)
NOVAのデモを行う様子(A5X Global Innovation & Venture Summit)

アジアの革新者が世界へと挑むための決定的なハブへ

25年前、起業教育プログラムから始まったシンガポール国立大学の挑戦は、今や高度な研究成果とグローバル資本、そして最先端のAI技術が密接に融合する巨大なイノベーションプラットフォーム「NUSX」へと昇華した。タン・シアン・ウィー博士が強調するように、この変革の道のりは10年から15年をかけた長期的な旅路であり、現在はその新しい時代の最初の第一歩を踏み出した段階に過ぎない。アイデアを抱く学生、技術投資の機会を探すベンチャーキャピタリスト、自社の優位性を高めたい産業パートナーに対し、NUSXはその門戸を広く開いている。研究成果を社会的価値へと変換し、世界に持続的な影響を与えていくという揺るぎないコミットメントのもと、アジアから世界市場を目指す起業家にとって、NUSXはこれからも進化を続けていく。

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