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量子暗号をめぐる各国の動向

  • 執筆者の写真: 安田 和貴/Yasuda Kazuki
    安田 和貴/Yasuda Kazuki
  • 6 日前
  • 読了時間: 8分

米国国家安全保障局(NSA)は、量子暗号の一方式であるQKD(量子鍵配送)について、国家の重要システムには使わないと明言している。一方、中国は同じ技術で総延長1万2000キロを超える通信網を実際に敷いた。北京と上海を結ぶ2000キロの基幹回線を持ち、専用の人工衛星まで打ち上げている。この記事では、量子暗号をめぐる各国の動きと、日本企業にとって何を意味するのかを整理する。


(用語の解説:PQCは「量子コンピュータでも破れない新しい数学に基づく暗号」でソフトウェアとして導入する。QKDは「物理法則を使って鍵を配る技術」で専用装置と光ファイバーが必要である。両者の詳細は別記事「注目が高まる量子暗号とは。その重要性とQKDとPQCに関する解説」で扱っている)


PQCとQKDの対立と各国の動向

各国の動きは複雑に見えるが、実際には「PQCだけでいくか、QKDも併用するか」のいずれかである。米国から中国へ向かって、QKDの比重が上がっていく。

国・地域

力点

政策の方針

米国

PQC一本(QKDは政府として非推奨)

PQC標準を作り、導入期限を設定

欧州(EU)

PQC主体+QKD併用

近い将来はPQCを優先し、QKDは長期的な追加要素として多国間プログラムでインフラ構築

日本

QKD主体+PQC併用

国立研究機関や東芝やNECといった大企業の技術力が中心

インド

QKD主体+PQC併用

国家が資金・需要・正当性のすべてを供給する

中国

QKD主体+PQC併用

国家主導によるQKDのインフラ構築

米国がQKDに否定的理由は、専用の光ファイバーと装置が必要であり、距離は数百キロが限界、「相手が誰か」の確認は通常の暗号に頼る必要がある、といった背景から国家の重要システムには推奨していない。一方で、なぜ中国・EU・日本・インドなどは併用しているのか。まず、PQCの標準は米国の米国立標準技術研究所(NIST)が作っていることがポイントである。世界中がPQCへ移行しようとしているが、その拠り所となる標準は米国の政府機関が定めた。つまり米国以外の国にとって、PQC一本化とは「米国が選んだ標準に自国の安全保障を預ける」ことを意味する。

一方で、QKDは物理法則に基づくので、数学的前提とは無関係に成立する。QKD路線を維持する国が一定数ある理由の相当部分は、この技術的自律性の確保にある。


米国の動向:規制が産業構造を作り出す

米国の特徴は、政府がそのものが技術を作るのではなく、政府は標準と導入期限を決めることだけで、実装は民間に任せている。これまでの動向は以下の通り。


  • 2024年8月、NISTがPQCの標準3本を確定。これが事実上の世界標準になる

  • 2026年6月の大統領令で、連邦政府のPQCへの移行期限を2030年末とする。従来の2035年想定から4〜5年前倒し

  • 政府と取引する企業にも、調達規則の改定を通じて同じ期限が及ぶ

  • 連邦システムだけで移行費用は約71億ドルと試算


政府の方針に追従する形で、IBM・Google・AWS・Cisco等の大手が自社製品(クラウド、暗号鍵管理、ネットワーク機器)にPQCを標準として組み込みはじめており、PQCへの移行を支援するソフトウェアやサービスの市場が急拡大した。一方で、政府がQKDを非推奨していることから、米国ではQKDの装置メーカーがほとんど育たなかった。2018年米国初(自称)の商用QKDネットワークとして出発したQuantum XChangeでさえ、現在は鍵管理プラットフォームの企業へと事業内容を作り替えている。QKDから出発した企業でさえ、鍵管理プラットフォームの企業へと事業内容を作り替えている。


中国の動向:国家主導によるインフラ構築

中国は2013年に量子通信を国家プロジェクトに位置づけ、世界最大の運用網を作った。


  • 地上網は北京-上海の基幹回線(約2000キロ)を軸に、総延長1万2000キロ超とされる

  • 2016年に量子通信衛星「墨子号」を打ち上げ、衛星と地上の間での鍵配送を世界に先駆けて実証

  • 政府、銀行、電力で実運用に入っており、量子暗号を使ったSIMカードも展開されている


2025年1月、中国電信(チャイナテレコム)が主要な量子暗号装置(QKD)メーカーである国盾量子(QuantumCTek)を支配下に置いた。通信キャリアと量子暗号装置(QKD)メーカーが一体化し、垂直統合が完成した形である。スタートアップが独立した企業として存在し続けるのではなく、中国電信という国家系企業に吸収されたのである。


欧州の動向:EU加盟国共同でのインフラ構築

EUの設計思想は「米中どちらにも依存しない」ことにある。PQCを土台にしつつ、QKDを主権的な物理防御として並行整備する二段構えである。中核がEuroQCIという、27加盟国と欧州宇宙機関が協働する多国間プログラムである。27加盟国がそれぞれ自国内に量子通信網を敷き、それを国境を越えてつなぎ、さらに上空の衛星でカバーする。この地上と宇宙の二層構造を、EU予算と欧州宇宙機関(ESA)の資金で作る計画である。2019年に加盟国が構想に合意し、2023年1月から本格的な建設が始まった。2026年現在の動向として、各国が作った量子通信網を統合するフェーズに入っており、2026年7月14日に欧州委員会がドイツテレコムを全体の展開計画(PETRUS2)として、オーストリア工科研究所を標準化と相互接続性(HarmoniQCI)の担当として委任した。


地上側がこうした統合の段階に入る一方、衛星側は遅れている。中核となる量子通信衛星「Eagle-1」は、当初2024年の打ち上げ予定だった。それが2026年末から2027年初へずれ込んでいる。しかも打ち上げ後は3年間の軌道上検証が予定されており、実際に使えるようになるのはさらに先となる。


インドの動向:国家がスタートアップへ投資

中国は国家主導でインフラを作り、企業を吸収する。米国は規制で需要を作り、実装は民間に委ねる。インドはその中間といえるやり方として、国家がスタートアップの株主となった。

2025年4月、インドの量子暗号スタートアップQNu Labsが6億ルピー(₹60 crore)を調達した。このラウンドの筆頭投資家は、インド政府のNational Quantum Mission(国家量子ミッション)だった。助成金ではなく、エクイティ出資である。同時に、政府は同スタートアップの顧客でもある。同社の導入先には陸軍、海軍、国営通信のBSNL、政府系の地理空間技術機関が並ぶ。成果も出ており、2026年4月8日、インド科学技術省は1000キロ級の量子通信網の実証に成功したと発表した。National Quantum Missionの当初計画は「8年で2000キロ」だったので、大幅な前倒しである。

インドでは、「国産であること」そのものが競争優位になる点にある。政府調達においてindigenous(国産)は明確な加点要素であり、外国ベンダーが入り込む余地は小さい。インドでは国がスタートアップへ資金を提供しながら、同時に需要を生み出すことで技術導入を進めている。


日本の動向:世界有数のQKD技術蓄積

日本は、技術的蓄積は世界有数であるといえる。情報通信研究機構(NICT)が長年「Tokyo QKD Network」を運用し、東芝は長距離QKDで世界最高水準にある(開発の中核は英ケンブリッジの欧州法人)。NEC、NTT、富士通、三菱電機も取り組んでいる。国際標準化の場でも日本は主導的な役割を担ってきた。設計思想にも特徴がある。専用網を新設する中国とは対照的に、日本は既存の光インフラやNTTのIOWNに相乗りしてコストを抑えるアプローチをとっている


一方で、大企業と国立研究機関が技術を持ち、スタートアップがほとんどいない。OptQC、Yaqumo、Qubitcore、Quemixなど複数が活動しているが、そのほとんどが量子コンピュータ側に集まっており、量子通信のハードウェアを手がける企業はごく少ない。量子中継器を開発するLQUOMがその数少ない一社であり、リスクマネーが入る受け皿が少ない。同社の累計調達額は2026年4月のシリーズB時点で12.3億円。同じ量子ネットワーク領域の英国企業Nu Quantumが単独で6000万ドル(約90億円)を調達しているのと比べると、7倍以上の開きがある。技術優位を産業優位に転換する経路が少ないといえる。


日本企業への示唆

第一に、期限は自国政府ではなく取引先から来る。日本政府はPQC移行の期限をまだ設定していない(CRYPTRECが2026年度にガイドライン策定を予定している段階である)。しかし米国政府と直接・間接に取引する企業には、調達要件を通じて2030年という期限が及ぶ。自国に期限がないことは、自社に期限がないことを意味していないことに注意すべきである。


第二に、「PQCかQKDか」を勝敗として見るのではなく、製品レベルでは併用がすでに標準になっている。実務的な問いは「どちらが勝つか」ではなく、「自社が売る地域では、どちらが主役として調達されるか」である。米国市場ではQKDの訴求は響かない。EUや日本ではPQC単独では主権要件を満たさない場面が今後想定される。


出典

米国

欧州

日本

インド

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